YouTubeのコメント欄で思ったこと
今日、暇つぶしにYouTubeを少し見ていた。
私は色々なYouTubeをどっぷりハマらず見ているタイプだ。
YouTubeを見ているとコメント欄を見たくなる。
そこで私は面白いものを見た。
あるYouTuberに対する好印象を持った意見に対し、その返信にそのYouTuberに嫌な印象を持ったコメントが返されていた。
そこにあった「相手の意見を認める」という意見。
私はこれは少し論点とズレていると思った。
認めるというのは相手がと言っている考えを確かにそうだなっと思うことであると思う。でもそんな簡単にできるのだろうか?
もし、相手が不快だと思っている部分が自分にとっては好きな部分だとする。
それをどうやって認めるのだ。意味がわからない。
「受け入れる」というのはよくわかる。
相手が嫌だと思っている。そういう方もいるんだな、と思って終われる。
しかし、認めるともなるとそれは感情も含んで来るであろうと思う。
「認めろ」という考え方が悪い訳では無い。しかし、それはとても難しい事だ。
例えば隣に日本とは真逆の文化を持っている外国人が住みに来たとしよう。
彼らはご飯を食べる時に音を立てることを礼儀としてすごしていると仮定する。
あなたが彼らに「あなたも音をたてて食べてみて!」と言われる。
きっと大半の人は彼らの要求を受け入れるであろう。
この行為が「受け入れる」だ。
じゃあね彼らの文化は素晴らしいと心の底から言えるのだろうか。
「理解」するのは簡単だ。
「彼らは音を立てることがいい」
それで終わる。
じゃあ「彼らの文化は素晴らしい」と簡単に思えるのか。
まるで性格の悪い人の様になるが、これはかなり難しいことなのだ。
私達が嫌いなものをどうやっか素晴らしいと考えられるのか。
心の底から素晴らしいと言える方はあまりいないであろう。
人は無意識ながら認めていると勘違いしているのではないか?
私達がすべき事は「認める」事ではない。
「受け入れ理解する事」の方がよっぽど大切なことだ。
「このような文化があるんだな」と受け入れ理解するだけでいい。
彼らの文化は認められない!やめろ!
とは言わないのだ。
彼らの文化はは空気なのだ。
「あっても何も問題ない。」それでいい。
今の世界はどうもそれができていない気がする。
どうして文句を言いたくなるのか。
彼らは他人でしかない。
それは悪い意味での他人ではない。
私達は「空気の関係」になればいいと
彼らが何をしていたって構わない。だから私だって何をしたって構わない。
自分の範囲内だから
彼らは相手の範囲内に入り「やめろ!」と声を荒らげる。
どうしてそうなるのかな?私には理解ができない。
私達は干渉しすぎてしまっている。
皆が仲良くはできないのだ。
だがあなたはそういう方なのね、と思えばいいのだ。
私達は正しくない。皆間違っているのに…
論点がズレましたね。世界にまで吹っ飛んでしまいました。
今のネットはどうもすぐ反論する癖がついているような気がします。
もちろん悪い事をしている人には反論せねばなりません。
ですが今は「自分と違う意見を持っている人の意見を反対する」
それが流行っているようですね。
私はTwitterなので批判すればいいのにと思います。
まぁ、私の意見なので。